いくつになっても

仕事の後(というかまぁ仕事のうちだが)ある会合に出て会食して先ほど帰りました。
皆近くの地域に住む方で高齢の親御さんをお世話なさっている、また介護保険サービスを利用しながら、施設を利用しながら足しげく通ってらっしゃるとか介護の苦労を知った方達だ。

親御さんが長寿でいらっしゃる事で、逆に介護が必要になってしまった部分は有るかも知れないが、生きているからこそできる苦労もある訳で。とはいえ認知症が進んで、子供である自分のことも思い出してくれなくなるとコレまた悲しいものはあります。

でも、いくつ年をとってもやはり親は親らしいです。
そう言っているご自分たちももうそれ相応に年齢を重ねているが、「何歳まで生きた〜」からいいと言う事は無いのでしょう。もちろん冗談では「そろそろ死んだじいさんが迎えにきてくれないと、看ているこっちが大変だ。」とか、いくらでも出てはくるのですが、長寿を全うしたといえども(割り切るための時間にはなるようだが)家族を失う事の寂しさは消えては亡くならない。

そんな方たちも介護保険の改正でなにやら利用料の自己負担が増えるらしいとか、希望する施設サービスは待機が多くて利用できないでいるとか、色々気にかけていらっしゃる様子でした。
在宅で生活できる余地や、地域にとどまって生活していけるような細かいサービスの実施といったような厚労省の考えにも一理はあると思うのですが、介護サービスも小分けすれば目が行き届くがコスト高になりそうです。
それはそうですよね、小さいなりにその中でサービスを完結するためには設備も人材も一通り必要だし。
サービスが増えれば介護保険料(社会保険)自体の値上がりにつながります。給付が増大すれが単価の切り下げにも繋がっていくでしょう。


矛盾していますが。


今話題のグループホームの類いも、結局一人毎月十数万の金額を(小遣い以外に)支出できる層しか利用できないからすぐに頭打ちになるでしょう。
この制度、というか国の社会保障制度自体が維持できなくなっているので、また少子化で相互扶助が成り立たなくなる事で将来にわたる不安は増すばかりですが、子供を持つ親の気持ちとしては、「うちの子供たちみたいな後の世代に、つけばかり残したくないなぁ。」と思うのです。

サラリーマンはこの制度からなかなか逃げられない様になっていますが、それ以外の人たちは「自分の年金なんてどうせ将来は大してもらえないから別に金なんて払いたくない」とか思ってると払わないで済んじゃったりすると。

思うが、それがあまりに多くなれば公的な制度はホントに維持できなくなる。
そのあとで今と同じようなサービスを維持したり、同じ頻度で病院なんかを利用したりしながら、アメリカのように任意保険となれば掛け金は今よりもっと高くなるだろうから正直払えない。
だって補助無いんだよ。
これはこの国にある制度の中で利用する側にもちゃんと恩恵のある(いや、裏側にも利権があるとは思うが)いい制度だと思うので、僕らが生きてる間ぐらいはせめて保険で病院に行けるようであって欲しいな。
金無くて手術できないとかやだな。
なんか考え方がせこいな。
色々な年上の方と話しているとこっちもなんだか精神的に年とるのは気のせいですか?

でも色んな年代の人と話しはした方が良いですね。
同じような年代の人や、職場の知った人たちだと、思考が似てくるし予想がつくので。
でも意外な視点で自分を観られたりするのはたまにドキッとする。
でも年齢を経た方は判ってもむやみな言い方しないんだよね。それがまた自分の未熟さを思い知らされると言うか。やっぱ若ければ良いってモンじゃないねぇ。